犯罪成立の三つの関門

――子どもの問題行動をめぐって、社会全体が失った「順序」について

一 ある言い回しから

子どもが何か重大なことをしでかしたとき、教育現場でも、報道でも、家庭でも、しばしば同じ言葉が口にされる。

「あの子はまだ罪にならないから」

悪気のない言葉だ。むしろ、子どもを守ろうとする善意から出ていることのほうが多い。だが、この一言には、法律家であれば一瞬で気づく重大な飛躍が含まれている。順序が、まるごと一つ抜け落ちているのだ。

本稿で論じたいのは、特定の誰かの不勉強ではない。教育現場でも、メディアでも、行政でも、そして私たち自身の感覚のなかでも、共通して欠落している「ある順序」について書きたい。そしてその順序が、刑法という、一見すると教育やケアとは縁遠く見える領域に、驚くほど明晰な形で保存されていることを示したい。

二 犯罪が成立するための三つの関門

法律が「これは犯罪だ」と判断するとき、行為は三つの関門を順番に通過しなければならない。順番が決定的に重要で、前の関門を通らなければ次へは進めない。

第一の関門は、構成要件該当性。法律があらかじめ定めた「犯罪の型」――「人を殺した」「他人の物を盗った」――に、現実の行為が当てはまるか。型に当てはまらなければ、そもそも入口に立てない。蚊を叩いても「人を殺した」には当たらない。

第二の関門は、違法性。型に当てはまっても、例外的に許される場合がある。襲われて反撃した正当防衛がその代表だ。これに当たれば犯罪は成立しない。逆に、こうした例外がなければ、その行為は「違法」――端的に言えば「悪いこと」――として確定する。

第三の関門は、責任。違法な行為をしても、その人を「非難できない」事情があれば、犯罪は成立しない。重い精神障害で善悪の判断がつかなかった場合、そして――刑事未成年、つまり一四歳未満の子ども。

三つの関門を、順番に通る三つのゲートとして思い描いてほしい。一つでも通らなければ、その先には進めない。

三 すっ飛ばされる二つの関門

さて、冒頭の「あの子はまだ罪にならないから」を、この三段階に照らしてみる。

一四歳未満の子どもが人を傷つけたとき、何が起きているか。第一の関門――その行為は傷害なり何なりの「型」に当てはまる。第二の関門――正当防衛などがなければ、それは違法である。つまり「悪いこと」は、確かに起きている。 そのうえで、第三の関門でだけ、年齢ゆえに「この子を非難はできない」と判断される。

ここが核心だ。行為の違法性は、消えていない。残っている。 ただ「その子を責められない」だけなのだ。

ところが「罪にならないから」という言い回しは、第一・第二の関門を丸ごと飛ばし、いきなり第三の結論だけを取り出してしまう。すると無意識のうちに、こういう含意が滑り込む――「だから、悪いことではなかったのだ」と。

これは単なる言葉の綾ではない。実害が出る。

違法な行為が現に存在する以上、それに対する正当防衛は成立する。「罪にならない子だから、その子への反撃も違法だ」という誤解は、ここから生まれる。また、一四歳未満の子を道具のように使って犯罪をさせた大人は、間接正犯として重く問われる。子どもの行為に違法性が残っているからこそ、それを利用した大人を罰せられるのだ。「子どもに犯罪は成立しない」と雑に語れば、この説明はつかなくなる。

法律は、はるかに精密だ。「悪いことは起きた。ただ、この子を罰する段階ではない」――この二段構えを、決して崩さない。

四 なぜ教育者がこれを飛ばすことが、特に深刻なのか

法律家にとって、この区別は理論的精密さの問題かもしれない。だが教育者にとっては違う。彼らが日々向き合っているのは、まさに「違法な行為をしたが、まだ責任を問えない年齢の子ども」そのものだからだ。

この区別を持てないことは、教育者の三つの職責すべてを歪める。

加害児童への指導が崩れる。「罪にならない」を起点にすると、「悪いことをしたわけではない」が滑り込む。だが子どもに必要なのは「あなたのしたことは確かに悪い。ただ法律はまだあなたを罰しない」という二段構えのメッセージだ。これを伝えられない大人は、叱るべきところを曖昧にするか、逆に過剰に「犯罪者」扱いするか、両極のどちらかに振れる。

被害児童への対応が破綻する。「相手は罪にならない子だから」という説明は、被害側には「我慢しろ」としか響かない。本来言うべきは、行為自体は違法に成立しており、学校はそれを違法な侵害として正面から扱う、という姿勢だ。

そして法令遵守との整合が取れなくなる。いじめ防止対策推進法は、そもそも刑事責任を前提にしていない。違法・有害な行為そのものに学校が介入する建付けだ。「罪にならないから対応の必要は薄い」という発想は、この法の趣旨と正面から衝突する。

五 しかし、それは現場個人の責任ではない

ここで足を止めたい。現場の教育者を「不勉強だ」と責めるのは、たやすいが、不当だ。問題はもっと手前、養成の設計にある。

教員養成課程で扱う法律は、「教育法規」に大きく偏っている。教育職員免許法、同施行規則、そして全国の教職課程が共通して修得すべき内容を定める「教職課程コアカリキュラム」――これらはいずれも文部科学省の所管であり、対象は教育に関わる法であって、刑法の犯罪論体系ではない。構成要件・違法性・責任という三段階を、教職課程の標準ルートで体系的に学ぶ設計には、なっていない。

公民科・社会科の免許取得者は、教科の専門科目として刑法総論に触れる場合がある。だが、触法年齢の子どもを最前線で扱う小学校教員や、他教科の教員には、その論理を学ぶ制度的機会が標準ルートに存在しない。

つまり、多くの教員は「一四歳未満は罪にならない」という結論だけを、その論理階層から切り離して受け取っている。結論だけを暗記した知識は、現場で応用がきかない。だから三つの職責すべてで判断を誤る。これは個人の怠慢ではなく、養成段階での「結論のみ・論理抜き」の刷り込みなのだ。

六 歪みは、逆方向にも振れる

ここまでは「すっ飛ばしが子どもを甘やかす方向」の話だった。だが同じ無理解は、まったく逆の、より危険な方向にも作用する。

刑事手続が第三の関門で「罰しない」と判断するのは、刑罰権の発動を抑える慎重な結論だ。ここには罪刑法定主義・適正手続・謙抑性という強い縛りがかかっている。

ところが学校の懲戒――停学や退学――は、刑罰ではない。学校教育法上の、別系統の処分だ。だから刑事のゲートを通過する必要がない。刑事が慎重に止めた手前で、学校処分は自由に進める。

すると何が起きるか。刑事司法が積み上げる三段階を経ないまま、「普段から素行が悪い」という人物評価で処分が発動できてしまう。本来は当該行為が懲戒に値するかを問うべきところ、日頃の問題行動の累積が「この子は処分されて当然」という予断を作り、その行為単体なら過剰なはずの退学にまで滑り込む。刑事なら責任能力ゆえに止まる子が、学校では人格評価ゆえに、かえって重く扱われる。

ここには二重の不公正が重なる。第一に、行為への処分が人物への処分にすり替わっている。第二に、それが本来もっとも手続的保護を要する触法年齢の子に向かう。退学処分について裁判所は、生徒の教育を受ける権利に直結する重大処分として、他の手段では教育目的を達せられない場合に限るという厳格な姿勢を示してきた。だが現場では、刑事の論理を借りずに、人物評価で走ってしまう。

同じ無理解が、保護すべき子を「悪くなかった」と見放し、罰すべきでない子を人物ゆえに重く罰する。両極に、同時に作用するのだ。

七 「叱らない」という、もう一つの層

ここに、近年しばしば見られるもう一つの傾向を重ねたい。子どもを叱ることを、過度に避ける傾向だ。

一見、これは第三節の「甘やかし」と地続きに見える。だが実は、もっと根が深い。叱ることの回避は、行為への正面からの評価そのものを放棄する態度だからだ。

叱るとは何か。冷静に考えれば、それは「あなたのしたこと(行為)は悪い(違法だ)」と個別に評価し、しかし「あなた自身を全否定はしない」という非難の留保を同時に伝える――きわめて法的に精緻な営みである。第二の関門(違法性の確定)と第三の関門(非難可能性の判断)を、子どもに向けて翻訳する作業にほかならない。

これを避ける現場には、行為を評価する言語が残らない。残るのは「あの子は問題児だ」という人物のラベルだけだ。だからこそ、いざ処分の段になると、行為の軽重を測る物差しがないまま、累積した人物評価で停学・退学に一気に振れる。

叱らないことと、過剰な処分は、対立ではなく、因果でつながっている。 日常的に行為を評価する訓練を積まないから、行為責任の原則が空洞化し、有事には人格評価に頼るしかなくなる。

八 現場をそう振る舞わせているもの

しかし、公平を期さなければならない。叱ることの忌避も、行為評価の放棄も、有事の人物本位の処分も、現場の怠慢から自発的に生まれたとは言いきれない。多くは、糾弾されないための防御反応として選ばれている。

叱れば「体罰だ」「子どもの心を傷つけた」とSNSで拡散され、メディアが乗る。加害児童を毅然と扱えば加害側の親が抗議し、被害児童を守りきれなければ被害側の親と世論が学校を吊るす。どちらに動いても糾弾される構造のなかでは、行為を正面から「これは違法だ」と評価すること自体が、最もリスクの高い選択になる。だから現場は評価を避け、曖昧化し、責任を回避できる形式的処分に逃げる。叱らないことは、教育的信念というより、炎上回避の合理的帰結かもしれないのだ。

監督省庁も同じ力学のなかにいる。本来なら「行為は厳格に、人は配慮して」という枠組みを示し、現場を世論の理不尽から守る盾になるべき立場だ。だが省庁自身も国会・世論・メディアの追及を恐れ、明確な基準を示すことを避ける。基準を出せば責任が生じ、批判の的になるからだ。結果、現場に降りてくるのは原則ではなく「問題を起こすな」という事なかれの圧力だけになる。守るべき側が、自分が叩かれないために、現場を一人で世論にさらす。

九 声が大きいところほど、論理は痩せている

そして最上流に、見落とされがちな転倒がある。三段階をもっとも理解していないのは、しばしば、もっとも激しく糾弾する側なのだ。

報道は、事件を「許せない加害」と「守られるべき被害」の二項で描くと、もっとも視聴者に訴える。この物語に、「違法だが責任は問えない」という法の二段構えは邪魔でしかない。だからメディアは第三の関門だけを取り出し、「罪に問えないとは何事か」と憤るか、逆に「あんな子を犯罪者扱いするな」と憤る。どちらの憤りも、行為の違法性と人への非難を分離できていない点では、同じ無理解だ。正義を掲げるほど、論理階層は踏み潰される。

省庁の縦割りも、これを後押しする。教育行政を担う文部科学省は、刑法の所管官庁ではない。だから触法事案における犯罪論の構造を、所管外の知識として、十分に踏まえた指導を出せる保証がない。法務省や検察なら当然の前提とする三段階を、教育行政は管轄の外側の話として、精密には扱いにくい。

省庁間の連携が存在しないわけではない。少年鑑別所が学校からの相談を受ける地域援助、スクールロイヤーの配置、児童相談所への通告制度――仕組みはある。だが、それらの連携はすべて「心理的支援」「福祉的対応」「法務相談」に寄っている。「この行為は違法に成立している」という刑法的評価を、現場の指導言語へと翻訳する連携は、どこにも見当たらない。 連携の不在ではなく、連携の中身が、行為評価という肝心の一点を素通りしているのだ。

こうして歪みの全体像が裏返る。最下流の教育現場が最も非難されてきたが、論理をもっとも欠いているのは、むしろ上流――正義を掲げて糾弾するメディアと、所管外ゆえに刑法を精密に扱えない教育行政の側だった。理解の欠如は、現場から遠ざかり、声が大きくなるほど、深まっていく。そして理解の薄い上流が、理解を欠いたまま、下流を裁く。

十 すべては、一つの「順序の転倒」である

ここまで、いくつもの層を見てきた。論理のすっ飛ばし、両極への作用、叱ることの忌避、養成課程の欠落、現場への外圧、省庁の縦割り、メディアの義憤。

これらは、たった一つの誤りに収斂する。順序の転倒である。

正しい順序は、こうだ。まず行為を評価する。 構成要件に当たり、違法であれば、それは「悪いこと」だと確定させる。この確定を経たうえで、初めて、責任の段で年齢を配慮し、さらにその先に、教育的なケアが乗る。

配慮もケアも、行為を「悪い」と確定させたことの上に積まれる。行為評価を飛ばして、直接ケアに入ることはできない。法の三段階が違法性の確定を責任判断に先行させるのは、偶然ではない。「責められない」と言うためには、まず「責められるべき悪い行為」の存在が前提だからだ。少年法の保護処分も、触法少年の福祉的対応も、すべて「違法な行為が現に起きた」を出発点にして、はじめて正当化される。ケアは、違法性の確定の代わりではない。その後に来るものだ。

この光に照らすと、すべての層の歪みが、同じ転倒の変奏だったとわかる。

叱ることの忌避は、第一段階を飛ばして、いきなりやさしさへ向かう転倒。「罪にならない」のすっ飛ばしは、行為評価を経ずに結論へ飛ぶ転倒。過剰処分は、行為評価を経ないまま人物評価で処分へ飛ぶ転倒。メディアの義憤は、冷静な違法性の確定を飛ばして、いきなり断罪か擁護へ飛ぶ転倒。省庁連携が福祉・心理に偏るのも、「これは違法だ」という評価を媒介せずに、ケアの仕組みだけを回す転倒。

すべてが、行為評価という第一段階を飛ばして、配慮・ケア・断罪へと先回りしている。

十一 この順序は、憲法の理念そのものである

ここで一つ、踏み込んでおきたい。いま述べた「順序」は、単なる刑法の作法ではない。それは憲法が個人に約束したものの、現場における実装にほかならない。少なくとも三つの条文が、それぞれ別の角度から、この順序を支えている。

第一に、憲法三一条――適正手続の保障。「法律の定める手続によらなければ、刑罰その他の不利益を科せられない」というこの条文の精神は、刑罰の場面にとどまらず、人に不利益を課すあらゆる場面に及ぶと解されてきた。「行為を正しく評価してから、はじめて処分する」という本稿の順序は、適正手続そのものだ。素行や人物の印象で処分へ飛ぶ過剰処分は、三一条の理念に正面から反する。学校の懲戒が刑事手続を経ないからといって、適正手続の精神から自由になるわけではない。不利益を課すなら、行為に即した適正なプロセスを経よ――これが憲法の要請である。

第二に、憲法一四条――法の下の平等。これは二重に効く。行為ではなく人物で裁くことは、「素行の悪い子」という属性による差別的取扱いに接近する。同じ行為でも「普段の問題行動」ゆえに重く扱われるのは、行為を平等に評価するという建前を裏切る。そしてより根底において、本稿が一貫して言う行為責任の原則――人は「したこと」によって評価されるべきで、「何者であるか」によってではない――は、まさに一四条が個人の尊重から導く核心だ。人格評価への滑り落ちは、平等原則そのものの侵食である。

第三に、憲法一八条――奴隷的拘束および苦役からの自由。一見、本稿から遠く見えるこの条文は、実は射程が深い。それは、人を「人格」としてではなく「処理すべき対象」として扱うことへの、根源的な禁止だからだ。行為を評価せず、人物のラベルだけで子どもを処分し排除することは、その子を一個の人格として遇することの放棄に接近する。叱ること――行為を個別に評価し、しかし人格は全否定しないこと――の忌避は、裏返せば、子どもを人格として正面から扱う労を省くことにほかならない。一八条が守る人格の尊厳は、「行為は評価するが、人は配慮する」という二段構えの、憲法上の根拠となる。

三条文を貫く一本の線は、個人の尊重(一三条)から流れ出る一つの原理だ――人は、その行為によって評価され、しかし人格として遇される。 三一条が手続の側面を、一四条が平等の側面を、一八条が尊厳の側面を担う。本稿が刑法総論の三段階として描いてきたものは、実は、これら憲法の理念を刑事の場面で具体化した装置だったのである。

だとすれば、行為評価を飛ばす転倒は、単に刑法の論理を誤っているのではない。それは、憲法が個人に保障した適正な手続・平等な評価・人格としての尊厳という、三つの理念を同時に空洞化させている。教育現場の歪みは、現場における憲法価値の後退でもあるのだ。

十二 やさしさを、正しく働かせるために

誤解しないでほしい。ケアそのものは、何も悪くない。順序が逆なだけだ。

行為を「悪い」と確定させずに与えられるケアは、子どもに「自分のしたことは悪くなかった」という誤ったメッセージを残す。被害者には「行為そのものが軽んじられた」という不公正を残す。やさしさが、かえって両方を傷つける。

だからこれは、誰かを罰せよという話ではない。むしろ逆だ。行為を正しく評価することと、人を配慮することは、対立しない。前者なしに、後者は成り立たない。 やさしさは、厳格な行為評価の代わりではなく、その先にあるべきものだ。

法律家が当然の前提とする三段階の論理――「行為は厳格に見る。しかし人には配慮する」――が、養成にも、行政にも、報道にも、そして私たちの感覚にも、これほど根づいていない。その総体が、子どもをめぐる判断を、静かに歪め続けている。

子どもにやさしくあるために、まず「それは悪いことだ」と、正面から認めること。順序を、もとに戻すこと。やさしさを救うのは、案外、この一見冷たく見える順序のほうなのだ。そしてその順序は、憲法が一人ひとりの子どもに約束した、適正な評価と、平等と、人格の尊厳を、現場で実現するための、たった一つの道筋でもある。