宇都宮の繁華街に一頭のクマが現れ、京都・天橋立の松並木を成獣がノシノシと歩き、阿蘇海を泳いで渡った。麻酔銃に撃たれ、仰向けにぐったりと横たわった巨体の写真が、列島を駆けめぐる。そして役所には電話が殺到する。「殺さないでくれ」「山に逃がせ」「本来いる場所に返せ」。担当者は疲弊し、「お答えしかねます」と返すしかない。
この光景には、考えるに値するものがいくつも畳み込まれている。私はここで、誰かを論破したいのではない。「殺さないで」と電話する人を、冷たい論理で黙らせたいのでもない。むしろ逆だ。その願いに、最後まで誠実に付き合ってみたい。願いの手を取り、その願いがどこへ行き着くのかまで、一緒に歩いてみたい。すると、一枚ずつ床を踏み抜くように、思いがけない深みへ降りていくことになる。
一 まず、法の地図を広げる
感情の前に、事実の配置を確認しておきたい。
クマは「物」でも「ペット」でもない。日本の法体系では、鳥獣保護管理法の枠組みで扱われる野生鳥獣である。誰の所有物でもなく、原則として捕獲は禁じられるが、人身被害や生活環境への危険があるとき、自治体は有害鳥獣捕獲の許可のもとで捕獲・処分できる。市街地出没のような緊急時には、住宅地等でも発砲を可能にする緊急銃猟の制度も、近年整えられた。
つまり殺処分は、担当者の感情でも気まぐれでもない。法律に基づく行政処分である。ここが、感情論との最初の分かれ目になる。
そして「殺さないで」という訴えが連想させる動物愛護管理法は、実は野生のクマには基本的に及ばない。同法が守るのは、人の占有下にある愛護動物——ペットや家畜だ。野生個体の管理は、別の法律の領域にある。「かわいそう」という感情は、しばしばこの二つの法を混同したところに立っている。レイヤーが、そもそも違うのだ。
二 「逃がせ」という願いを、最後まで歩く
では、「山に逃がせ」「自然に返せ」という願いに従ったら、何が起こるのか。否定からではなく、随伴から考える。
「捕獲場所に戻せばいい」という、最も自然な反論
「元いた場所に返せ」と言うと、すぐにこう返ってくる。「難しい話じゃない。捕獲した場所、市街地なら、その近くの森に戻せばいいだけだろう」。これは素朴で、一見もっともだ。由来地など遡らなくても、捕まえた地点ははっきりしている。隣の山際に放てば済むではないか、と。だから、これを雑に押し返してはいけない。一度、正面から受け止める。
だが、ここには静かなすり替えがある。「捕獲場所」は「元いた場所」ではない。元いた場所とは、その個体が日常的に餌をとり、移動し、ねぐらにしていた生息の本拠だ。捕獲場所とは、たまたま最後に人間が確保した一点にすぎない。市街地で捕獲したのなら、捕獲場所は市街地である。クマの本拠が市街地であるはずがない。だから「捕獲場所に戻せ」を文字どおり実行すれば、市街地のど真ん中に放すことになり、誰もそれは望まない。
つまり「捕獲場所に戻せ」と言う人も、本当は捕獲場所に戻せとは思っていない。「捕獲場所の近くの、人のいない森へ」と、無意識に条件を書き換えている。ここで、はっきり特定できる「捕獲場所」という点から、特定できない「近くの森」という面へと、宛先がそっと移動している。
そして「近くの森」とはどこか。市街地の近くに、クマが生きられる森などない。少し離れた山際まで運ぶことになる。その瞬間、「捕獲場所に戻す」という当初の明快さは消えている。どの山際か。どれだけ離れていいのか。そこはクマが生きられる広さと餌を持つのか。問いは、最初に否定したはずの「特定できない面」へ、そっくり逆戻りする。点であるうちは特定できるが戻す意味がなく、意味のある場所へ広げた途端に特定できなくなる。この往復から、抜けられない。
しかも「近く」に戻すことには、固有の危険がある。市街地に出てきたという事実そのものが、その個体が人里への経路を知り、人里に餌があると学習したことを示している。同じ場所の近くに放てば、同じ経路でまた出てくる蓋然性が高い。最も素直に見える「近くに戻す」は、再出没の危険が最も高い選択でもある。素朴さの裏で、行政はもっとも予見可能な再加害リスクを、自ら作り出すことになる。
移す権限が、そもそもない
では「もっと別の、遠い山へ」と望むとしよう。だが自治体はクマを所有していない。たまたま自管轄に出没した個体を、住民の安全のために捕獲・処分する——その権限は、「自管轄内の危険を除去する」という目的に由来している。だとすれば、権限の地理的な射程も、自管轄の内側に限られるはずだ。
ここに、見過ごされがちな反転がある。殺処分は「自管轄の中で危険源を消す」行為だから、管轄内の権限で正当化できる。だが遠隔地への移動放獣は「他管轄へ危険源を移す」行為であり、移動先に対して何の権限も持たない自治体には、その根拠がない。同じ「処分」でも、殺処分は権限の内側、移動放獣は権限の外側にある。「逃がせ」とは、自治体に存在しない権限の行使を求めることなのだ。
返すべき「自然」が、この国には存在しない
そして、最も根の深い層。「山に返せ」と言う人が思い描いているのは、漠然とした「自然」だろう。誰のものでもない、人間の外側にある、手つかずの原野。そこへ返せば、クマは人間の領域から切り離される——そういうイメージだ。
しかし、日本の国土に、その意味での「無主の自然」はほぼ存在しない。国土は私有地・公有地・国有地のいずれかに帰属し尽くしている。山も例外ではない。民有林には地権者がおり、奥山や原生林と呼ばれる場所さえ、その多くは国有林として国の管理下にある。
だから、日本でクマを山に放つことは、観念のうえでは「自然に返す」でも、法的な実体としては必ず「特定の誰かが所有し管理する土地に、危険源を置く」ことになる。無主の自然が存在しない以上、放つ先は論理の必然として、必ず誰かの権利領域なのだ。「自然へ」という、主体のない宛先を思い描いているが、現実の宛先には、いつも主体がいる。
こうして「山に返せ」という願いは、三重に履行できなくなる。原点が特定できない。移す権限がない。そして、返すべき自然そのものが、もう国土に残っていない。
三 無人島まで歩いて、価値が裏返る
ここで、もう一〇〇歩を譲ってみよう。「自然とは、人のいない場所のことだ」と。願う人にとって最も都合のよい定義を、まるごと受け入れる。
その定義を日本の地図に当てはめたら、何が残るか。人のいない陸地は、もう国土からほとんど消えている。厳密に「人の不在」を満たすのは、海で隔てられた無人島くらいだろう。願いを最後まで貫くと、クマの帰る「自然」は、無人島に収斂していく。
そして無人島に着いた瞬間、それが「自然」と呼べるのかが崩れる。クマは広い行動圏を持ち、ブナやドングリ、植物、昆虫といった多様な餌に依存する、森の動物だ。豊かな森林生態系の中でしか生きられない。一方、日本近海の無人島の多くは、狭く、植生が貧しく、クマの食性を支える森も餌もない。海に囲まれ、行動圏を広げる余地もない。
そこは、「人がいない」という一点だけを満たし、「クマが生きられる」という条件を、まるで満たさない場所だ。人間にとっての「手つかずの自然」と、クマにとっての「生きられる環境」は、別物だった。
ここで価値が裏返る。「クマを自然に返すこと=クマの幸せ」というのが、願いの出発点だった。ところが、その図式を最後まで貫いて到達した無人島は、餌がなく、逃げ場もない閉鎖環境だ。そこにクマを置くことは、生かしているように見えて、緩慢な飢えと衰弱へ追いやることになりかねない。即時の処分よりも、むしろ長く苦しませる。願う人が忌避したはずの「クマの不幸」を、その願いの論理が、別の——そしてより残酷な——形で実現してしまう。
誰も罵倒していない。ただ、願いの手を取って、その行き着く先まで一緒に歩いただけだ。すると、願いは、自分で自分を裏切る場所に出た。
四 降りていく——「クマのため」という言葉の底へ
ここから、認識の床を一枚ずつ踏み抜いていく。
第一の床 「自然に返すのが幸せ」は、人間の投影だ
「クマを自然に返すのが幸せだ」——この判断は、誰の視点なのか。クマは「自然に返りたい」とも「殺されたくない」とも、表明していない。これは、人間が——とりわけ都市に住み、自然を喪失と郷愁の対象として眺める人間が——クマに投影した物語だ。「自然に帰る動物は幸せ」というロマンティシズムは、人間の自然観の反映であって、クマの福祉そのものではない。
この投影に気づくと、自分の足元も揺れる。私はこの文章で「クマの側から見れば苦痛は少ないほうがいい」と書こうとした。だが、その福祉の尺度すら、人間が人間の感受性から類推して、クマに当てはめたものだ。クマが何を幸福と感じ、苦痛をどう経験し、死をどう受け取るのかを、私たちは知らない。クマの内面にアクセスする手段は、原理的に、ない。「クマの側からのベター」という言い方そのものが、厳密には成り立たない。あるのは「人間が想像したクマの側」だけだ。願う人を批判した私も、同じ構造の中にいる。
第二の床 「クマは自然のものだ」という分類も、投影だ
だが、その批判は、まだ一つの前提を温存していた。「クマは自然の側の生き物だ」という前提である。自然に返すのが幸せかどうかを論じる時点で、すでに「クマは本来あちら側に属している」と認めてしまっている。
問い直そう。日本に生息するクマは、人間のいない手つかずの原野に暮らしてなどいない。人間が住み、耕し、植林し、林道を通してきた、まさにその日本の山野に生きている。クマが歩く森は、人間が何百年も手を入れてきた森だ。クマは「人間のいない自然」にいるのではなく、人間と領域を重ねて、人間のすぐ隣で生きている。
あくまで擬人化を承知の仮定だが——もしクマ自身に世界の捉え方があるなら、クマは自分を「自然の側の存在」として人間と切り離してなど認識していないかもしれない。山も里も、人のいる場所もいない場所も、餌のある/ない、危険な/安全な、という連続したひと続きの空間として生きていて、その中に人間という大きな生き物がいる、というくらいの認識かもしれない。「ここからは人間の領域」という線は、クマの世界には引かれていない。その線を引いているのは、人間だけだ。
第三の床 「自然」という概念そのものが、人間の枠組みだ
ならば、もう一枚下へ。カラスは電線にとまり、カモメは漁港の残飯をあさり、スズメは軒先に巣をかけ、リスは公園の木を渡り、タヌキは住宅街の縁を歩き、シカは里に下りて畑を食む。これらの生き物は、「自然の中で」生きているのではない。人間の住む場所と重なって、ただ生きている。「自然に生きている動物」と「人里に出てくる動物」を分ける線は、どこにもない。
「自然」とは、人間が自分の生活圏の外側に想定した、対概念だ。人間/自然、人工/野生、内側/外側。この二分法は、人間が世界を秩序づけるために引いた線であって、世界の側にあらかじめ存在する区分ではない。自然という概念は、それを概念化する人間がいて初めて生まれる。
事実として在るのは、ただこれだけだ——あらゆる生物は、地球という一つの生態系に、日本という島嶼群に、生息している。それ以上でも以下でもない。「自然」も「人里」も「野生」も、その生態系を人間が後から切り分けて名づけた、人間の語彙にすぎない。生態系の側に、その境界線は引かれていない。
ここまで来ると、これまでの論が、地面ごと裏返る。「自然に返せ」は、地図に載っていない場所へ返せと言っているのではなく、地図の外にあると人間が想像しているだけの場所へ、返せと言っていた。宛先は、最初から人間の頭の中にしかなかった。「クマが人里に出てきた」という記述すら、虚構の線を前提にしている。クマは越境していない。一つの生態系の中を、移動しただけだ。越境したように見えるのは、人間が線を引いて、その線をクマが跨いだと記述するからだ。「衝突」という問題設定さえ、人間が作った。問題は、生態系の側にあるのではない。人間が引いた線の側に、ある。
第四の床 だが、概念の下に、摂理は実在する
ここで、虚無に落ちないために、決定的な区別を立てなければならない。「自然」という概念は人間の枠組みにすぎない。だがそれは、「自然」という名づけ・分類・物語が虚構だということであって、生態系の中で実際に起きている作用そのものまでが虚構だ、という意味ではない。
「自然」という言葉は人間のものだ。しかし、クマが何かを食べ、何かに食べられ、餌の多寡で個体数が増減し、ある関係が別の関係を規定していく——その作用の連鎖は、人間が名づけようと名づけまいと、実際に起きている。概念は人間の発明だが、摂理は人間以前から在る。名前を剝がしても、作用は残る。
そして、その摂理は「弱肉強食」ではない。クマが別の大きな生き物に、あるいは小さな生き物に遭遇したとき、何が起きるかは、単純な力の強弱では決まらない。捕食する/されることもあれば、互いを避けることもある。小さな生き物が、病や寄生によって大きな個体を死に至らしめることもある。餌、縄張り、繁殖期、個体数——無数の条件が絡んで、結果が決まる。強い者が必ず勝つのではない。摂理とは、力の序列ではなく、諸条件の関係が帰結を決める、その作用の総体だ。「弱肉強食」もまた、強者の支配を自然の理として正当化したい人間が、摂理にかぶせた物語の一つだった。
ここで予想される反論——「だが人間は武器や道具を持つ。だから人間と動物の関係は、摂理の外にある」。だが、サルも道具を使う。石で実を割り、枝で虫を釣る。道具の使用は、人間を生態系から切り離す境界線ではない。程度の差であって、種類の差ではない。人間の武器がどれほど高度でも、それは「摂理の外に出た」ことを意味しない。それもまた、一つの種が獲得した能力という、摂理の内側の出来事だ。ある種が牙を持ち、ある種が毒を持ち、ある種が道具と言語と法を持つ。人間の道具も、サルの石も、摂理から見れば同じ平面の上にある。人間は摂理を超えてなどいない。摂理の中で、たまたま道具を極端に発達させた一種にすぎない。
——もちろん、これを人間社会にそのまま当てはめるつもりはない。人間どうしのあいだで「摂理だから強い者が弱い者を」などと言えば、それは野蛮の正当化になる。摂理の実在を認めることと、摂理を人間社会の規範にすることは、まったく別だ。前者は事実の承認、後者は事実から当為を導く誤りである。摂理が在ると認めることは、摂理に従えと言うことではない。
第五の床 ゆえに、人間の解決は、すべて人間の都合だ
摂理が実在し、それが弱肉強食でもなく、人間も道具ゆえに別格ではない——これを認めると、クマ問題の「解決」は、位置づけが変わる。
人間の法律も、論理も、倫理も、摂理の前に、あとから来たものだ。クマと人間が同じ生態系に生き、遭遇し、何らかの帰結に至る——その作用は、人間が法を作るずっと前から在った。法が摂理を制御しているのではない。摂理という地面の上で、人間が人間の都合で、小さな囲いを作っているだけだ。
だから、この問題に人間が持ち出すあらゆる解決策——「人道的に」「動物愛護」「自然保護」「環境保護」——は、その一つひとつが、摂理に対する人間の応答であって、摂理そのものではない。摂理は解決策を持たない。摂理はただ作用するだけで、そこに「解決」という概念がない。「解決」を求めているのは、人間だけだ。人道も、愛護も、保護も、すべて「人間が、人間にとって受け入れられる帰結を、摂理の上に実現しようとする」試みであり、どこまで突き詰めても、人間の視点からの、人間に都合のよい着地点にすぎない。
「クマのため」も「自然のため」も「環境のため」も、最後の最後まで剝いていけば、「人間が、そう在ってほしいと願う世界のため」に行き着く。それ以外の地点には、人間は立てない。摂理の側には、ためも願いもないのだから。
五 では、何ができるのか——認めること
ここまで床を抜いてくると、虚無に落ちそうになる。だが、落ちない。むしろ、ここから責任の話が、はじめて正確な重さを持つ。
「自然」が概念であり、人間の解決がすべて人間の都合だとしても、人間が線を引くこと自体は、やめられない。人間は、線を引き、内と外を分け、安全圏を囲わなければ、生きていけない生き物だ。畑を作ること、家を建てること、子どもを守ること——それ自体が、線を引くことだ。だから問題は「線を引くな」ではない。線が人間の引いたものだと知りながら、なお引かざるをえない、その業を引き受けられるか、だ。
ここで、「クマの立場に立てる」と思うことの危うさが見えてくる。「これはクマのためだ」「クマもこのほうが幸せだ」と信じられれば、決定の重さはクマの利益へと転嫁され、決定した者は楽になる。殺処分も「クマのため」、放獣も「クマのため」——クマを代弁できると信じる者は、自分が下した判断の責任を、代弁したクマに肩代わりさせている。立場に立てると思うことは、優しさではない。責任の、外注なのだ。
逆に「絶対に立てない」と認めると、転嫁する先が消える。クマのためだと言えない以上、その決定はまるごと人間の決定として、人間に返ってくる。クマを盾にできない。だから「立てない」という自覚は、無責任の言い訳ではなく、責任を自分の手元に取り戻す行為になる。謙虚さが、そのまま責任の重さに変わる。
ただし、崩してはならない区別が一つある。「クマの立場に立てない」ことと、「クマのことを想像しなくていい」ことは、まったく違う。立てないと認めることは、想像の放棄ではない。むしろ逆だ。立てると思う者は、想像を一度で完了させる——「クマは自然が幸せ」で、思考を止める。立てないと知る者は、自分の想像が必ずどこかで外れていることを前提にするから、想像を更新しつづけるしかない。届かないと知りながら、それでも手を伸ばしつづける。その、届かなさを抱えたまま伸ばす手の距離こそが、人と他者の「あいだ」なのだと思う。
なお、目の前の現実として言えば——すでに市街地に出てしまった学習個体は、再出没と加害の危険が高く、安全を優先するなら、苦い消去法として処分が残る。劇的な「より良い」は、そこにはない。本当の勝負は手前にある。クマが市街地に出るのは、人と奥山のあいだの里山という緩衝帯が機能を失ったからだ。誘引源を断ち、見通しを確保し、棲み分けを設計する——出てこなければ、殺すか逃がすかの二択そのものが発生しない。だが、その設計さえ、すべて人間の視点からの、人間の都合であることに、変わりはない。それを忘れない限りにおいて、それでも、やる。
結 誰の靴を履いているのか
クマをどうするかという問いに、正解はない。挙げた手立ても、すべて人間の都合だった。そして誰一人、クマの立場には立てず、「自然」は人間の概念にすぎず、その下に在る摂理は、人間の願いなど一顧だにしない。——この一連の不可能性は、しかし、絶望ではない。それは、人間が、自分の都合でしかないと知りながら、なお他者の生死を決めねばならないときに引き受けるべき責任の、正確な重さを教えている。
本当の謙虚さとは、わからないと言って手を引くことではない。わからないと知りながら、その決定の全重量を、自分の側に引き受けることだ。「お前のためだった」と言わないこと。これは人間の都合だった、と認めること。そして、認めた上で、なお、届かない場所へ手を伸ばしつづけること。それが、「自然」という概念を持ってしまった人間に、唯一できる正直さだ。
最後に、一つだけ。
「殺すな、もといた場所に返せ」と願う人へ。その願いは、尊い。否定するつもりは、少しもない。だが一度だけ、立ち止まって、確かめてみてはどうだろうか。
いま自分が履いているその靴は、本当に、クマの靴だろうか。それとも——。