上書きされた古層——「古来からの伝統」はいかにして作られるか

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ホログラフィック原理という物理の考え方がある。ある空間の内部に詰まっている情報の全体が、その空間を囲む境界面に余すところなく書き込まれている、という発想だ。立体の中身は、それを包む薄い面のうちにすべて畳み込まれている。

文化の継承も、これによく似ている。経典の一節、ひとつの所作、稽古で受け継がれる型——そうした小さな符号の面に、共同体の世界観の全体が圧縮されて書き込まれている。受け手はそれを身体で「展開」し、自分の生のなかに立体として再構成する。短い経文を唱え、決められた所作を反復するたびに、その背後にある世界の全体が、本人の意識を経由せずに復元されていく。

だとすれば、ひとつの仮説が立つ。符号のごく一点に序列を刻むだけで、復元される世界の全体が、その序列に沿って方向づけられるのではないか。畳み込まれているがゆえに、改変は局所的でも、立ち上がる立体は隅々まで染まる。宗教の始まりにおける符号化が、父権社会の強化へ、制度化へと働いた——この見立ては、おそらく正しい。ただし、正しさの中身を慎重に開いていくと、それは「父権が一方的に符号を刻んだ」という単純な話ではなくなる。符号と社会構造とが、互いに互いを書き込み合う共進化の話になる。

まず四つの古層を歩いて共進化の文法を取り出し、そのうえで、その文法を私たち自身の足下にある最も生々しい符号——「万世一系」と「男系継承」——に当ててみたい。

メソポタミア——両義性が削られていく

シュメールの女神イナンナ、のちのイシュタルは、豊穣と戦争、性愛と破壊を同時に体現する両義的な神格だった。都市国家の神殿経済の中心には女性祭司がいて、祭祀と経済と政治がまだ分かちがたく絡み合っていた時代の符号である。

ところが都市国家が領域国家へ、やがて帝国へと巨大化し、常備軍と官僚制で広大な土地を統べるようになると、神々の体系も再編されていく。男性の最高神が頂点に立ち、女神の両義性は「制御すべき混沌」「危険な性」の側へと切り縮められていった。ここで見るべきは、誰かが思想として女神を貶めたのではない、という点だ。統治機構が中央集権化すれば、神々の階層もまた中央集権化する。符号が構造を映し、その符号が次の世代の構造を当然のものとして再生産する。イナンナの両義性が痩せていく過程は、思想の事件ではなく、構造と符号が同時に動いた共進化の事件だった。

ギリシャ——格下げによる包摂

アイスキュロスの悲劇『オレステイア』の結末は、ほとんど教科書的なほど明瞭に、符号の書き換えを舞台の上で上演している。母を殺したオレステスの裁判で、古い大地の女神たち、母の血の復讐者であるエリニュスと、新しいオリュンポスの神アポロン・アテナとが対決する。アポロンは、真の親は父であって母は種を預かる土にすぎない、という論理で母殺しを免責し、アテナがそれを支持して、父系の秩序が勝利する。

注目すべきは、この決着が古い女神を抹消しない点だ。エリニュスは慈しみの女神エウメニデスと名を変え、都市の地下に祀り直されて物語は終わる。古層を消去するのではなく、序列の下位に格納して制度のなかに組み込む。上書きが、ここでは「廃棄ではなく格下げによる包摂」という具体的な形をとっている。そしてこの神話的決着は、現実のアテナイで氏族の古い力が縮小し、ポリスの市民権が父系で定義されていく社会過程と、互いを正当化し合っていた。劇が構造を聖別し、構造が劇を必要とした。

日本——女神を戴いたまま、制度が男性化する

日本列島は、共進化を二つの時間軸で見せてくれる。

ひとつは古層である。最高神アマテラスが女神であり、各地に巫女や斎宮といった女性の祭祀者が祭祀の核を担った痕跡は濃い。ところが律令国家の形成期に、中国由来の家父長的な統治モデルと官僚制が導入されると、祭祀の中心はしだいに男性の官人・神職へと移り、女性祭祀者は周縁へ、補助の位置へと押しやられていく。女神を頂点に戴いたまま、その女神に仕える制度のほうは男性化していく。このねじれは、共進化が単純な一枚岩でないことをよく示している。そして後で見るように、このねじれは現代の皇統論にそのまま尾を引いている。

もうひとつは近代だ。明治国家は、近代天皇制と国民国家を築くために、それまで地域ごとに多様だった神社・祭祀・作法を、国家神道というひとつの体系へと再符号化した。同時に、民法の「家」制度が戸主権を父に集中させ、家の祭祀を主宰するのも家長=男性と定められていく。ここでは宗教符号の再編と社会制度の再編とが、別々に進んで後から噛み合ったのではない。最初から同じ国家プロジェクトの両輪として、一体に設計された。共進化のもっとも意識的で、もっとも人工的な事例である。

インド——テキストと慣行のループ

古代インドのマヌ法典は、身分の秩序とジェンダーの秩序を細密に符号化したテキストだ。女性は生涯、父・夫・息子の保護のもとに置かれるという規定がよく知られている。

ここで共進化として読むべきは、このテキストが現実をそのまま写したのでも、現実を一方的に作り出したのでもない、という点である。土地と家畜をめぐる父系的な相続の慣行が先にあり、それを神聖な宇宙秩序として権威づけるテキストが編まれ、そのテキストが今度は慣行を「聖なる必然」として固定し、そこからの逸脱を罪として再生産していく。慣行が符号を生み、符号が慣行を未来へ投射する。このループが何世紀も回り続けた。テキストは構造を映す鏡であると同時に、構造を未来へ送り出す装置でもあった。

共進化の文法、そして残された痕跡

四つを並べると、父権的な符号化は、そのどれでもないことが見えてくる。起源の一点で完成した刻印ではない。思想家が頭で考案して上から押しつけた教義でもない。宗教が本質として内蔵する宿命でもない。むしろ毎回、統治の中央集権化、領域国家化、父系相続の確立といった社会構造の変化と、神話・経典・祭祀という符号の再編とが、互いを原因とも結果ともしながら同時に進行した。構造が符号を選び、符号が構造を聖別し、聖別された構造が次の符号を要求する。この円環こそが、共進化の具体的な姿だ。

そしてホログラフィックな圧縮には、もうひとつの性質がある。断片のなかに全体の痕跡が残る、ということだ。上書きされた古層は、完全には消えない。イナンナの両義性、地下に祀られたエリニュス、女神アマテラスと古い巫女の影、マヌ法典が抑え込もうとした女性たちの経済力——どれも、境界面に書き込まれたまま残った痕跡である。痕跡が残っているということは、別様の符号化が現に存在したという物証にほかならない。父権的な符号化は、起源の必然ではなく、特定の社会条件下での選択だった。

ここから、共進化の文法を三つの操作として取り出せる。「古来からの伝統」を称する符号は、たいてい次の三つを隠している。第一に、起源の捏造——後代に作った層を、起源から続くものと偽る。第二に、選択の必然化——数ある選択肢の一つを、唯一ありうる自然の姿と言い張る。第三に、円環の隠蔽——「伝統だから正しい」という自己参照を、始まりのない根拠であるかのように見せる。

この三つの操作を、抽象論のままにしておく必要はない。私たちの足下に、それが最も純度高く結晶した生きた符号がある。万世一系と男系継承である。

最も新しい伝統――万世一系に三つの操作を当てる

日本という共同体において、おそらく最も高度に圧縮された符号が、万世一系と男系継承だ。神話の時代から一度も途切れず続く一本の血、それも父から父へとたどれる男系の血。保守の語りにおいて、この一点には、国体・連続性・正統性・日本人の自己同一性のすべてが畳み込まれている。だからこそ、ここに手を触れることは全体の崩壊として体験され、激しく拒絶される。最も濃く圧縮された境界面は、最も強く改変を拒む。三つの操作を、順に当ててみよう。

起源の捏造

万世一系は「神武天皇から一度も途切れていない」連続性を主張する。だが、この連続性そのものが、後代に遡及的に構成された符号である。

決定的な事実がひとつある。「万世一系」という言葉そのものが、太古から伝わる古語ではない。これは明治の元勲・岩倉具視の造語であり、大日本帝国憲法第一条にこの語が記されて、はじめて国家の中心概念として鋳造された。神代から響いてきた言葉ではなく、近代国家を作るために発明された標語なのだ。最も新しい言葉を、最も古い真理として掲げる。起源の捏造は、まさにこの語の出自そのものに刻まれている。

「男系」の絶対化も、保守派が言うほど太古から自明だったわけではない。歴史上、推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)・明正・後桜町と、十代八人の女性天皇が現に在位した。皇室研究者の所功は、皇位継承者を男系男子に限り女系を除くというような議論も明文も、明治の初めまではほとんど存在しなかったと指摘している。そもそも「男系」「女系」という語の対立自体が、明治になって使われ出したものだ。つまり「天皇は男系男子でなければならない」という規範は、無数の現実の例外を後から消去し、あるいは「中継ぎにすぎなかった」と再解釈することによって、事後的に「起源から一貫した原則」として立てられた。最も新しい整理を、最も古い掟と言い張る操作である。

選択の必然化

「皇位は男系でなければ皇室ではない」という主張は、数ある継承のかたちの一つを、唯一ありうる自然の姿として差し出す。だが、ここには見落とせない反論がある。保守派はこう言うだろう——過去の女性天皇は、たしかに全員、父方に天皇の血を引く「男系の女子」であって、父系をたどれない「女系」の天皇は一人もいなかった、と。これは史実として正しい。だから論を雑に進めてはならない。

しかし、まさにこの反論の存在こそが、選択の必然化という操作を露わにする。男系の女子が現に何人も即位したという事実は、「皇位は男子でなければならない」という縛りが、太古の必然ではなかったことの動かぬ物証だからだ。女性が即位できたのなら、男子限定は宇宙の理ではなく、選び取られた制度である。

その「選び取り」が、いつ、どこを手本に行われたか。明治典範の起草過程が答えを残している。皇室研究者の高森明勅が指摘する通り、起草者がまとめた草稿には、「男子」限定の根拠としてプロイセン・ベルギー・スウェーデンといった欧州諸国の王位継承制度が参照先として書き込まれていた。それらはキリスト教圏で女性を排除する方向に拡大適用された継承法の系譜にある。つまり明治の「男系男子」限定は、日本古来の伝統の純粋な結晶などではなく、十九世紀ヨーロッパの男子優先の王位継承を手本として採用された、近代の選択だった。起草者自身が、国内にこれといった明文の根拠を挙げられなかったことが、何より雄弁である。

ここで、先に触れた日本の古層のねじれが効いてくる。皇統がその子孫を称する最高神、アマテラスは女神である。神話の頂点に女性を据えながら、継承の論理は父系で固める。最も高いところに女神を戴き、その女神に仕える制度のほうは男性に限定していく。この捻れこそ、男系が太古の必然ではなく後代の選択だったことを、神話自身が内側から告げている。消し残された別の可能性——女性天皇たち、そして女神そのもの——によって、「自然」は反証されてしまう。

円環の隠蔽

「男系で続いてきたのだから、男系で続けねばならない」。この論法は、共進化の円環の一周だけを切り取って、始まりのない自明の根拠であるかのように差し出す。だが男系継承が権威を持つのは、過去に権力がそう符号化したからであり、その符号化は、家父長的な家制度や父系相続という、その時代の社会構造を正当化し永続させるためのものだった。

決定的なのは、やはり明治である。江戸時代まで、皇位継承について明文化されたルールは存在しなかった。慣行と先例があり、例外として女性天皇もいた。それを一本の鉄則へと鋳造したのが、一八八九年の旧皇室典範である。第一条は「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定めた。慣行や例外を含んでいたものが、近代国家の設計として、明文の絶対規則になった瞬間だ。

そして、この再符号化は単独で進んだのではない。すでに四つめの古層で見た通り——民法の「家」制度が戸主権を父に集中させ、国家神道が各地の祭祀を一つの体系へ再編し、皇室典範が皇統を男系に限定した。これらは別々に起きて偶然噛み合ったのではなく、近代天皇制と国民国家を築くという同一のプロジェクトの、いくつもの歯車として一体に設計された。男系の絶対化は、神代からの継承であるより、近代の発明にきわめて近い。

だとすれば、「伝統だから守る」という言葉の中身はこうなる——「明治の権力がそう書いたから、いまもそう書いてある」。根拠は循環している。万世一系が現在の制度を正当化し、現在の制度が万世一系を必要とする。その円環の外側に、独立した土台はない。

境界面を読み解く

ホログラフィックな見立てに戻れば、こうなる。万世一系という符号の面に書き込まれているのは、「神武以来の真理」ではない。「ある時代の権力が、自らを永続させるために選んだ、世界の復元の仕方」である。面を丁寧に読み解けば、太古の神々ではなく、律令国家と明治国家という二人の特定の作者の筆跡が透けて見える。最も新しい層を最も古いと称する、その筆致の新しさが見える。

宇宙の全情報が境界に符号化されているのと同じ意味で、ある政治的な意図が「神聖な連続性」として境界面に符号化された。それが万世一系であり、男系継承である。そしてこれは皇統に限った話ではない。「神話の時代から続く国体」「日本古来の家族の形」——超保守の語りが「古来から」と指さすものの多くが、同じ構造を持つ。三重の操作のどれをとっても、地面には達していない。彼らが踏みしめていると信じている岩盤は、自分たちで描いた絵の上に立つ足場である。

刃を、自分にも向ける

ただし、この刃は自分にも返ってくる。返ってこなければ、ただの返り討ちの道具になる。

「伝統に土台がない」という主張は、「ならば伝統を語ること自体が無効だ」という結論には届かない。土台がないのは超保守の伝統だけでなく、あらゆる伝統がそうだからだ。万世一系に土台がないと見抜くことは、議論を終わらせる結論ではなく、議論を始める入口である。土台がないのは万世一系だけではない。それに代わるどんな構想——女性天皇も、女系も、いまのかたちの維持も——すべて同じく、自然な土台を持たないのだから。どれも、誰かが選ぶ符号である。神話の血がどれか一つを保証してくれることは、もはやない。

だから批判の刃は、「伝統に根拠はない、ゆえに何でもありだ」という虚無へは向かわない。向かう先はこうだ——伝統に自然な土台がないのなら、どの符号で未来を編むかは、過去の権威ではなく、いまを生きる私たちが主権者として引き受けるべき選択になる。

これは思弁ではない。日本国憲法の構造そのものと一致する。現憲法は天皇を「日本国民統合の象徴であり、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定めた。継承の正統性の源泉を、神話の血ではなく、国民の総意に置いたのである。万世一系という符号の最終的な根拠は、神代ではなく、私たちの現在の合意のなかにある。前憲法が岩倉具視の造語を第一条に掲げたその場所に、現憲法は「国民の総意」を据えた。これ以上明確な、符号の書き換えはない。

保守の語りの綻びは、「選んでいるのに、選んでいないふりをする」ことにある。男系継承を主権者の選択として擁護することは、十分に正当な政治的立場でありうる。だが「太古から自然にそうだったのだから議論の余地はない」と語ることは、選択を必然と偽る操作であり、主権者から選ぶ権利をそっと奪い取る身振りである。土台がないことを暴くのは、無責任を許すためではない。選択の責任を、権力の手から私たちの手に引き戻すためだ。土台がないという認識は、虚無ではなく、自由と責任の同義語になる。

共進化は一方向の固着ではない。円環であるがゆえに、別の入力を与えれば、別の方向へと回り出しうる。符号のごく一点を意識的に書き換えれば、反復される展開を通じて、立ち上がる世界の全体を、序列のない方向へと静かに編み直していける。着物を性別の規範から解いて着ること。所作や言葉づかいを組み替えること。儀礼の主体の指定を中立に開くこと。皇位継承のかたちを、神話の手から私たちの合意の手へと返すこと。破壊ではなく、再符号化。反逆とは、伝統を焦土にすることではない。伝統に自然な根拠などないと見抜いた上で、なお、どの古層を参照し、どの符号で未来を復元するかを、自分の責任で選び直すことだ。

最後にひとつ、線を引いておきたい。原初に女神の楽園があったという大きな物語には、考古学・人類学の側から強い異論がある。ここで主張したいのは「失われた楽園」ではない。各伝統のなかに、女性祭祀や女神の中心性を示す古層の痕跡が確実に残っており、それが後代に周縁化され、格下げされていった過程を史料からたどれる——その限定された、しかし十分に強い事実である。失われた楽園を語る必要はない。上書きの痕跡を示すだけで、必然ではなく選択だった、ゆえに別様でもありうる、という結論には、十分に届くのだから。