誰のための「総意」か

——皇室典範改正と当事者なき議論

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天皇の地位は、憲法第一条が定めるとおり、「主権の存する日本国民の総意に基く」。いま国会で進む皇室典範改正の議論は、まさにこの「総意」の名のもとに動いている。皇族数の確保策をめぐる「立法府の総意」が、近く取りまとめられようとしている。

だが、立ち止まって問いたい。その総意とは、誰の意思なのか。誰が、どれほどの重さの手続きで、それを確定するのか。そして——その地位を生身で生きる当人は、その「総意」のなかに数えられているのか。本稿は、改正を急ぐ政治家と、それを世論で測ろうとする論者の双方に、同じ一つの問いを向ける。

一 「総意」は世論調査ではない

ある論者は、改正を急ぐ麻生太郎氏を「個人の功績のために皇室を動かそうとしている」と批判し、その結論として「世論が求めているのは女性天皇、さらには女系天皇の誕生だ」と言い切った。だが、この一文には二重の難点がある。

第一に、数字の質である。最新の世論調査では、女性天皇への賛成は七割前後で安定し、女系容認も六割を超える。これは確かに大きな多数だ。しかし、女性天皇(女性が即位すること)と女系天皇(母方の血筋による継承)は、賛否の構造が異なる別の問いであり、しかも「女系天皇」の意味が分からないと答える層は九割に及ぶとされる。意味の伝わっていない選択肢の数字を、そのまま「国民が望んでいる」と読むことはできない。「容認する」ことと「待ち望む」ことのあいだにも、なお距離がある。

第二に、より根本的な取り違えがある。憲法第一条のいう「総意」とは、いっときの世論調査の結果でも、その時々の世論の空気でも、一社の調査の数字でもない。世論調査は、ある時点の、ある設問構成に対する、回答者の瞬間的な反応の集計にすぎない。それは民意の一つの痕跡ではあっても、国の象徴のあり方を永続的に基礎づけるほどの重みを、それ自体で持つわけではない。

ここに皮肉がある。麻生氏を「個人の信念で総意を押し切ろうとしている」と難じた当の論者が、自らは「いまの世論=総意」と置くことで、別の仕方で総意を痩せ細らせている。担ぐ神輿が「伝統」か「世論」かが違うだけで、総意を自分の望む方向の根拠として用いる操作は変わらない。

二 当事者はどこにいるのか

ここで、ほとんど誰も正面から問わない裂け目に触れたい。第一条が「総意」の主体として置いた「日本国民」のなかに、天皇本人は入るのか。

形式的には、入らない。憲法は第一章で天皇を、第三章で「国民の権利及び義務」を定め、両者を構造的に分けている。天皇は参政権を持たず、戸籍もなく皇統譜に記される。第一条の「総意」を文字どおり読めば、天皇はその総意によって地位を与えられる客体であって、総意を形づくる主体ではない。

だが、この形式論こそが一つの倒錯を露わにする。象徴とされる当人が、自らの地位の根拠である「総意」の形成からは完全に締め出されている。職業の自由も、婚姻の自由も、退位の自由すら、当人の意思では決められない。最も深く影響を受ける当事者が、決定の主体にも、意見を述べる主体にもなれない。象徴であることのコストを、当人だけが負っている。

現に、上皇が生前退位の意向を示したとき、当時の政権はその制度化を「皇位の安定性を失わせる」として避け、一代限りの特例法で処理した。天皇本人が稀に発した意思は、制度の側で例外として処理されたのである。これは、「総意」の形成から当人の声が算入されないという原則が、現実に作動した瞬間だった。

麻生氏も、世論を語る論者も、継承の「方式」を論じている。男系男子の養子か、女性宮家か、女系容認か。だが、その方式を生身で生きる当人が、議論のなかに主体として一度も登場しない。旧宮家の養子案にしても、養子に入る側の一人の人生を、どこまで「総意」が決めてよいのか。議論全体に、この視点が欠けている。

三 歴史との同型——担がれる天皇

天皇を、自らの政治的目的のための記号として担ぐ。この操作は、日本の歴史を貫いて反復してきた。

平安の外戚も、院政を敷いた上皇も、権威を借りた武家政権も、形は違えど天皇という存在を自らの正統性の源泉として運用した。だが操作がもっとも露骨に、そしてもっとも徹底して行われたのは近代である。明治政府は、それまで多くの民衆にほとんど意識されることのなかった天皇を、国家統合の中心へと作り変えた。神話を国体の根拠に据え、現人神として可視化し、御真影と教育勅語によって全国民の身体に天皇を内面化させた。それは伝統の継承というより、近代国家を建設するための天皇の政治的再発明だった。戦中の軍部はそれを極限まで利用し、統帥権の独立を盾に、天皇の名において戦争を遂行した。最終的には、当の天皇の意思すら超えて。

私はここで、麻生氏や高市氏の現在の振る舞いが、明治政府や軍部と「同等」だと言うつもりはない。規模も、暴力性も、もたらした帰結も、まるで違う。一方は国家暴力と戦争と数千万の死に結びつき、他方は民主的手続きの枠内での、平時の制度改正をめぐる駆け引きにすぎない。両者を同等と並べるのは、歴史への敬意を欠く。

しかし、両者は同型である。

規模と性質がどれほど違っても、そこに反復している操作の形式は同じだ。すなわち、天皇を当事者として勘定に入れず、継承の「方式」だけを自らの目的のために設計する、という形式である。麻生氏が、亡き義弟と盟友の遺志を継承方式に投影し、それを自らの政治的生涯を締めくくる「花道」にしようとしているのなら、それは天皇制を個人の物語を完結させる装置として用いていることになる。高市氏の男系男子限定が、「戦後レジームからの脱却」という特定の政治的価値の実現として追求されているのなら、それは皇位継承を政治的信条の表明の場に変えていることになる。いずれも、制度を当人のためにではなく、自分たちの目的のために動かそうとしている。

明治の天皇神格化と現在の典範改正論議のあいだには、計り知れない断絶がある。だが、当事者を客体として担ぐという一点において、両者は地続きの構造の上に立っている。今は穏当に見える。しかし穏当に見えることは、同じ構造の上にいないことを意味しない。

四 二つの課題を切り分ける

ここで、しばしば一束にされている二つの課題を、はっきり分けておきたい。一つは皇族数の減少という、現に迫っている課題。もう一つは、皇位継承をどの論理で続けるかという、継承原理の課題である。この二つは、緊急性の度合いがまるで違う。

事実として、現在の皇位継承資格者は三方であり、次世代にも継承資格をもつ男子が現にある。男系による継承は、少なくとも次の一代については確保されている。だとすれば、いま立法府が多数を握っているうちに、継承の方式までを一気に確定させなければならない——という切迫の根拠は、それほど強くない。

皇族数の減少それ自体は、確かに現実の課題だ。だがその多くは、女性皇族が婚姻後も身分を保持する案によって、公的活動の担い手を確保するという形で対応できる。これは比較的合意も得やすく、急ぐ理由のある領域である。女性宮家の創設までは、進めてよい。

問題は、そこに継承の方式——とりわけ旧宮家の男系男子養子案——を束ねて、一括で処理しようとする手つきにある。継承原理は、「いま足りない人手を補う」話ではない。この先、何世代の皇統を、どの血筋の論理で続けるかを決める話であり、本来もっとも時間をかけて総意を積み重ねるべき領域だ。緊急性の高い課題(皇族数)と、緊急性のない課題(継承原理)を一束にすれば、急ぐ必要のないものが、急ぐ必要のあるものに紛れて運ばれていく。束ねること自体が、一つの技術なのである。

そして、多数を握る時期に、合意の熟していない論点を既成事実にしてしまえば、後から方向を転じるのは著しく難しくなる。世論調査では多数が許容している女性天皇・女系容認という将来の選択肢を、いまのうちに塞いでおく——拙速とも見える対応の底には、そうした動機が透けて見える。これは「総意に基づく」べき事柄を、総意が固まる前に、手続きで先回りして固定する操作にほかならない。

切迫は、他の選択肢を塞ぐことの正当化にはならない。女性宮家は進めてよい。だが継承の方式については、総意を丁寧に積み重ねる時間が、現に、ある。

五 永続性に見合う手続きを

では、「総意」をどう明らかにすればよいのか。ここに決定打がないことこそが、この問題の核心である。

総意を確定する手続きには、何段かの重さがありうる。もっとも薄いのが世論調査。次が選挙を通じた間接的な民意——ただし皇室典範は選挙の主要争点になりにくく、政権を選んだことが継承策への授権を意味するとは言いにくい。現に、二〇二六年衆院選後の当選者アンケートでは女性天皇賛成が四割台に下がり、国民世論と議員世論のあいだには明白な乖離がある。その上が国会という代表機関の議決であり、推進側が「立法府の総意の取りまとめ=国民の総意の体現」と構成しようとしているのは、この水準だ。さらに重い手続きとして、超党派・長期の熟議や、国民的な合意形成のプロセスを求める考え方もありうる。憲法は「総意に基づく」とは書いたが、その総意をどの手続きで確定するかは書いていない。この空白を、誰が、どの強さで埋めるのかが、いままさに争われている。

そして決定的なのは、時間の尺度である。皇位継承制度は、一代や一政権ではなく、世代を超えて機能しなければならない仕組みだ。だとすれば、それを基礎づける「総意」も、いっときの多数ではなく、世代を超えて持続しうる合意でなければ釣り合わない。瞬間的な世論で動かせば、次の瞬間の世論でまた動かしうるものになり、皇位の安定性——まさに今回の改正が目指しているはずのもの——を自ら掘り崩す。

麻生氏の「花道」も、論者の「いまの世論」も、時間の尺度が制度の本質に対して短すぎる、という同じ病を抱えている。誰かのトラウマや遺志や任期のために急ぐべきではないのと、まったく同じ理由で、いっときの世論調査で押すべきでもない。「丁寧な扱い」とは、単なる慎重さの要請ではない。手続きの重さと時間の尺度を、制度の永続性に釣り合わせよ、という要求である。

結び

皇室典範改正の正統性は、発起人の情熱の強さでも、いっときの世論調査の数字でも測られない。それは、どれだけ「国民の総意」に忠実かで測られる。そしてその総意は、当事者を客体として担いだままでは、本当には満たされない。象徴の地位を基礎づける総意から象徴本人が締め出されているという非対称を直視し、当人の尊厳と意思をどう制度に織り込むかという、もう一つの原理を併走させること。それなしに、永続的で本質的な制度設計はありえない。 問うべきは、世論が女系を「求めている」かどうかではない。どの案にも、世代を超えて持ちこたえる総意がまだ形成されていない——その事実こそが、特定の個人の信念で、あるいは一過性の世論で、この国の根幹を押し切ることへの、最も静かで最も強い反論である。