パーカーおじさんの正体——装いとは何か、男性が生き方としての装いを持つとき


一 問いの入口

SNSで「おじさんパーカー問題」が炎上した。

あるコラムニストが「40歳近くになってパーカーを着る男性に違和感がある」と発言し、瞬く間に大論争へと発展した。擁護派は「好きなものを着る自由がある」と反論し、批判派は「清潔感と年相応の装いを」と応酬する。

しかし私は、この論争の両側が同じ土俵の上で空転しているように見える。

問われているのは「パーカーが似合うか否か」ではない。「40代の男性が、装いを通じて何を、あるいは何も、語っていないか」という、もっと根本的な問いのはずだ。


二 「ダサい」の解剖

なぜおじさんのパーカーはダサく見えるのか。感覚的な結論に飛びつく前に、その知覚の構造を丁寧に解剖する必要がある。

第一に、身体とアイテムの形態的な不一致がある。パーカーのフードは、顔周りが引き締まった若い身体には自然に機能する構造物だ。しかし中高年男性に多い首の短さ、肩の落ち、腹部の前傾という身体的変化と組み合わさると、フードは単なる余剰の布の塊として首の後ろに滞留し、全体のシルエットを後ろ重たく、だらしなく見せる。

第二に、文脈の矛盾がある。パーカーはもともと運動・労働・反文化という脱制度的なエネルギーを帯びたアイテムだ。そのエネルギーが様になるのは、まだ制度の外にいる存在——社会的にまだ何者でもない若者——だからである。すでに会社・家族・地域という制度の内側に深く組み込まれた40代男性がパーカーを纏うとき、アイテムの持つ脱制度性と着る人の制度性が正面衝突する。「痛い」という感覚の正体の一つはここにある。

しかし第三の問題が最も本質的だ。それは装いへの意志の不在である。

おじさんのパーカーがダサく見える多くのケースは、パーカーそのものの問題ではない。昨日も明日も同じ、惰性で着ている。「楽だから」という消去法的選択。自分の身体と文脈への無自覚。——この装いへの無関心が、他者に丸ごと読まれているのだ。


三 しかし若者も同根である

ここで立ち止まらなければならない。

「惰性」「消去法」「無自覚」は、おじさんパーカーに固有の問題ではない。ユニクロのヒートテックにジョガーパンツ、スタンスミス——これを毎日着ている20代も、構造としては全く同じである。

では同じ「無自覚」でも、なぜ若者は許されるのか。

若さには「余白」がある。まだ何者かになる途中という社会的な猶予が、無自覚な装いさえも「模索中」として読ませる。おじさんにはその余白がないと見なされているから、同じ無自覚が「諦め」として受信される。批判の根拠はファッションではなく、年齢に対する社会的期待の押しつけだ。

さらに言えば、若者の「流行への追随」を解剖すれば、その正体は明らかだ。バレンシアガがトリプルSを出す。セレクトショップが文脈を与えて紹介する。ファッションメディアが「今年のトレンド」と報じる。ZARAが廉価版を作る。GUが大量投入する。街に溢れる。「オワコン」になる。——この川の流れに乗っているだけの若者は、惰性でパーカーを着続けるおじさんと構造的に何も変わらない。

違いは慣性の方向だけだ。おじさんは過去の文脈に引きずられる慣性。流行を追う若者はマーケティングの流れに引きずられる慣性。どちらも自分の外側にある力に装いを決定させている。

そして流行を追う若者の多くは、GUで買ったバレルレッグパンツを「自分で選んだ」と思い、セレクトショップのインスタを見て「自分の好みが育った」と信じ、「時代遅れのおじさん」を批判しながら、自分がマーケティングの最も従順な消費者であることに気づいていない。搾取されていることへの無自覚という点で、これはむしろ深刻だ。


四 業界の知的貧困

では業界はこの問題に向き合ってきたのか。

答えは明確だ。向き合っていない。

20代向けには膨大なファッション言説がある。30代向けには「きれいめカジュアル」「脱ストリート」という移行期の言説がある。しかし40代男性向けには、「スーツをきちんと着ろ」か「若作りするな」しかほぼ存在しない。

これは偶然ではなく、構造的な怠慢だ。

ファッション産業のマーケティングが若者に向かう理由は単純だ。若者はアイデンティティが流動的なので「なりたい自分」を服に求めやすく、同調圧力が強いので「乗り遅れたくない」という不安で動かせる。論理はいらない。空気を作れば売れる。

40代はこの圧力が効きにくい。40代を動かすには、なぜこの素材なのかという論理、この価格に見合う具体的な価値、自分の生活文脈にどう機能するかというビジョン、着ることで自分がどういう存在として見えるかという説得力ある提示——これらが必要になる。

これは単純に、マーケターとデザイナーの能力要求が高い。

日本の男性ファッション業界は40代男性を、本気で獲得しようとしたことがない。それが「おじさんを無自覚にさせている」構造の一端を担っている。責任の所在は、パーカーおじさんではなく業界側にある。


五 スーツという借り物と、着物という喪失

問題の根はさらに深いところにある。

男性ファッションにはスーツという「完成された正解」があった。19世紀に確立したスーツは、身体の欠点を隠し、社会的文脈を纏わせるという二つの機能を同時に達成した、ほぼ完璧なシステムだ。この完成度が高すぎたことが、後発のデザイナーの思考を停止させた。

スーツという正解があるから、デザイナーはそこから従うか逸脱するかという二択しか考えてこなかった。40代男性の身体・文脈・心理に向き合ったデザイン言語が、そもそも育っていない。

対して女性ファッションには絶対的な正解が存在しなかった。コルセットが否定され、シャネルがジャージを持ち込み、サンローランがパンツスーツを提案し——常に身体と社会規範と美意識の間の緊張関係の中でデザイン言語が更新され続けた。正解がないから問い続けるしかなかった。問い続けたから語彙が増えた。語彙が増えたから40代の身体にも文脈にも対応できる言語が育った。

抑圧が豊かさを生み、特権が貧困を生んだ、という逆説がここにある。

そしてここに、日本男性固有の問題が重なる。

西洋男性にとってスーツは自分たちが作ったものだ。しかし日本男性は、明治維新という強制的な文化断絶によって着物という固有のデザイン言語を捨てさせられ、他者が完成させた規範を輸入した。自分たちで問いながら作ったのではなく、完成品を受け取った。だから問いを持つ訓練がなかった。

日本男性は二重の疎外の中にいる。着物という固有言語の喪失と、スーツという借り物の規範への従属。この構造を意識せずに「ダサいおじさん」を嘲笑することは、問題の根を完全に見誤っている。


六 公式を外した後の裸

ここで、おじさんパーカー問題の核心が見えてくる。

40代男性が一年の大半を過ごす「会社」という場では、スーツという規定が装いを決定する。しかしスーツには決定的な特徴がある——着脱できるということだ。

若者は流行という規定を四六時中まとっているから、オフという状態がない。おじさんはスーツを脱いだ瞬間に、完全な無規定状態に落ちる。

スーツを脱いだおじさんには、流行への感度もなく、固有の美意識も育っておらず、着物という固有言語も持っておらず、自分の身体と向き合う訓練もない。何もない。だからパーカーを着る。

パーカーは「裸に最も近い服」だ。部屋着の論理。手近にある、楽である、考えなくていい。これはだらしなさではなく、公式を外した後に何もないという構造的必然だ。

おじさんパーカー問題は「何を着るべきか」という問いではない。「公式を外した後の自分は何者か」という問いだ。


七 退職という臨界点

この問いは、ファッション論をはるかに越えた場所に届く。

多くの男性が退職後に経験する——行くところがない、話す相手がいない、時間の使い方がわからない、自分が何者かわからない。これらは表面的には社会的孤立として語られるが、根はもっと深い。スーツを脱いだ後に自分がいない、という問題だ。

惰性でパーカーを着るおじさんは、退職後に完全な虚無に直面するおじさんの予告編だったのだ。

女性が会社を辞めても自分が残る理由がある。女性は常に複数の文脈で自分を意識してきたから。職場の自分、社会の中の自分、親密な関係における自分、そして女性という身体を生きる自分——これらは一致することなく、時に矛盾し、葛藤し、互いを問い直す。その葛藤の積み重ねの中で「自分とは何か」を問い続けてきた。装いはその問いの日常的な実践だった。今日何を着るかという行為が、「自分は今日何者としてどこに現れるか」という問いと直結していた。だから会社という文脈が消えても、他の文脈の中に自分が残る。

男性は会社という単一の巨大な文脈の中に自分のほぼ全てを置いてきた。その文脈が消えると、自分ごと消える。

日本社会は男性に「会社の中で役割を全うせよ」という一点を要求し続け、その代わりに「それ以外のことは考えなくていい」という免除を与えてきた。その免除は同時に、自分が何者かを問う機会の剥奪でもあった。退職後の男性の孤独・存在喪失は、個人の精神的弱さではなく、社会構造が男性から「自分」を組織的に奪ってきた結果だ。


八 装いは自己認識の訓練である

毎朝何を着るかを意識的に選ぶという行為は——今日の自分はどういう文脈にいるか、他者の眼の中に自分はどう現れたいか、自分の身体と今日どう向き合うか——という問いを、日常の中に組み込む訓練だ。

この訓練を何十年も続けてきた人間と、スーツという正解に任せ続けてきた人間では、退職という臨界点において自己の厚みが全く異なる。

「これを着たい」という能動的な欲望から装える男性は、仕事においても、家族との関係においても、社会との関わり方においても、「自分はこうありたい」という欲望の主体として存在できる可能性が高い。装いにおける主体性の獲得は、生き方における主体性の訓練だ。


九 提案——生き方としての装い

ではどうするか。

「何を買え」という話をしたいのではない。もっと根本的な問いを立てたい。

男性が「これを着たい」と言えるようになることは、ファッションの問題ではなく自己の問題だ。自分の身体を知っているか。自分がどういう文脈の中に生きているかを知っているか。他者の眼の中に自分がどう現れるかを意識しているか。その上でアイテムを選んでいるか。

これはかなり能動的で知的な行為だ。しかしそれは特別なことではない。毎朝の選択を、少しだけ意識的にするということだ。

男性が装いの言語を獲得したとき、何が変わるか。他者の眼を意識できる男性が増える。自分の欲望を言語化できる男性が増える。公式を外した後も自分がある男性が増える。そして女性との、装いを通じた対話が成立し始める。

ファッションは男性だけで完結しない。常に女性ファッションとの相対の中に存在する。男性が装いの言語を持たないまま社会にいる現在は、女性の独白と男性の沈黙が並存しているだけだ。両者がそれぞれの言語を持ち、社会という場に同時に現れるとき、初めて真の意味での協調と共創が始まる。

おじさんパーカーという小さな現象は、その問いへの入口だった。

手近にあるパーカーではなく、生き方としての装いを。

それは同時に——自分はどう生きたいか、という問いへの、最も日常的な回答になりうる。


Jun Katanuma(潟沼 潤)
同時通訳者・翻訳者 / officenatura
鎌倉在住。着物を日常着として生きる。