津田梅子から市川房枝へ——世界中の女性たちと並走した、日本の解放運動
(前稿「『日本の伝統』は、いつ生まれたのか」続編)
はじめに ― 通説を裏返す
前稿で私は、現代日本で「古来の伝統」とされているもののほとんどが、実は明治期に西洋から輸入され、「伝統」として偽装された近代の発明品であることを、学術文献に基づいて整理した。
夫婦同姓も、神前結婚も、良妻賢母も、武士道も、「日本古来の貞操観念」も——その大半が、19世紀後半の西洋規範、特にヴィクトリア朝英国と19世紀アメリカのピューリタン的キリスト教文化の翻案だった、という事実である。
この事実を踏まえて続編で考えたいのは、明治・大正・昭和を通じて日本で闘った女性たちのことだ。
津田梅子、平塚らいてう、与謝野晶子、伊藤野枝、市川房枝——。彼女たちはふつう、「遅れた日本で、儒教的・封建的な男尊女卑と闘った先駆者」として語られる。学校の教科書はそう書く。多くの伝記もそう書く。
でも、本当にそうだったのだろうか。
前稿で確認した事実関係を踏まえると、この物語の枠組み自体が、根本的に間違っていることが見えてくる。
彼女たちが闘った相手は、日本古来の伝統ではなかった。明治政府が西洋から輸入したばかりの、新品の家父長的キリスト教近代規範だった。そして彼女たちは、孤立した「遅れた東洋の先駆者」ではなく、世界中の女性たちと同じ相手と、同時代に並走しながら闘っていた同志だった——。
これは単なる視点の修正ではない。日本女性史の根本的な再構成である。順を追って見ていこう。
1. 津田梅子 ― 「進んだ米国から学んだ」のではなかった
通説の問題
津田梅子の通説的物語はこうだ——「進んだ米国の女子教育を見て、遅れた日本に女子教育を導入した先駆者」。
しかし事実関係を時系列で追うと、この物語は事実に合わない。
時系列で見る津田梅子
1864年 江戸生まれ
1871年(6歳) 岩倉使節団の最年少メンバーとして渡米
1871–1882年(11年間) ワシントンDCに滞在、Georgetown Collegiate School、Archer Institute で学ぶ
1882年(18歳) 帰国
1889年(25歳) 米国に再留学、1885年に創設されたばかりの Bryn Mawr College で生物学と教育学を学ぶ
1892年 帰国
1900年(36歳) 女子英学塾(現・津田塾大学)を東京に創設
事実1 ― 当時の米国でも、女子高等教育は新しすぎる現象だった
津田梅子が学んだ Bryn Mawr College が創設されたのは1885年である。これは、彼女が最初に渡米した1871年から14年も後のことだ。設立の経緯がまさに本論のテーマと完璧に重なる——「当時、女性が大学院レベルで学ぶことが不可能だったため、女性のために創られた」のである。
Bryn Mawr の第二代学長で、後に津田梅子の留学を導いた M. Carey Thomas (1857–1935) の人生が、これを象徴している。
彼女はコーネル大学を卒業後、ジョンズ・ホプキンス大学院に進学を試みたが、女性であるという理由で正規入学を拒否された。次にドイツのライプツィヒ大学で3年間学んだが、これも女性であるという理由で学位授与を拒否された。ようやくスイスのチューリッヒ大学が女性に学位を出すと知って受け入れられ、1882年に summa cum laude(最優等)で博士号を取得した。
つまり、米国人女性が博士号を取得することが、米国の中ではまだ不可能だった時代である。
事実2 ― 米国の女子大は1885年時点でまだ「実験的事業」だった
Seven Sisters と呼ばれる米国の名門女子大の創設年を並べてみよう。
Mount Holyoke (1837)
Vassar (1861)
Wellesley (1870)
Smith (1871)
Radcliffe (1879)
Bryn Mawr (1885)
Barnard (1889)
これらは19世紀後半に、ようやく女性に高等教育を提供し始めた、当時としては極めて先鋭的で実験的な機関群だった。Harvard が女性に学位を出すのは1963年、Yale と Princeton が女性を受け入れるのは1969年である。
津田梅子が学んだ時点で、米国でも女性の大学教育は「これから戦って獲得していくべきもの」だったのだ。
事実3 ― 1900年の女子英学塾創設は、世界的に見ても先駆的だった
津田梅子が1900年に女子英学塾(現・津田塾大学)を創設した時、これは世界史的時間軸でどう位置づけられるか。
Bryn Mawr 創設(1885)から15年後
Barnard 創設(1889)から11年後
英国 Cambridge が女性に学位を出す(1948)の48年前
米国 Harvard が女性に学位を出す(1963)の63年前
つまり、津田梅子の事業は「遅れた日本が進んだ欧米に追いつく」ものではなかった。英米でもまだ女性たちが闘い続けていた最前線に、日本も同時参戦したという構造なのである。
事実4 ― 津田梅子は「文化的ショック」を逆方向に受けた
帰国後の津田梅子について、Wikipedia は次のように記録している。
彼女は文化的ショックを受け、日本社会に再適応すること、そして偏見と日常生活において女性が果たすべきとされた劣等的役割を受け入れることを困難に感じた。
これは決定的に重要な点だ。
バーバラ・ローズ(Barbara Rose)の研究『Tsuda Umeko and Women’s Education in Japan』(Yale University Press)が指摘する通り、明治政府は彼女を「米国で家庭性(domesticity)の教義を学ばせ、国家に忠実な子を育てる『良き女性』を作る教師にする」ために送り出した。
ところが津田が米国で見たのは、家庭性のイデオロギーよりもむしろ、女性教育運動と女性参政権運動の最前線だった。彼女は1882年に帰国した時、日本のあまりの後進性に絶望し、友人 Alice Bacon の励ましもあって、もう一度米国に渡って Bryn Mawr に学び直したのである。
事実5 ― 国境を越えた同時代の連帯
津田梅子は、M. Carey Thomas、Alice Bacon、そして津田と共に岩倉使節団で渡米した山川捨松(後の大山捨松)らとともに、国境を越えた女性教育運動のネットワークの一員だった。
彼女は Bryn Mawr 在学中、「American Women’s Scholarship for Japanese Women(日本人女性のためのアメリカ女性奨学金)」を立ち上げる資金集めに成功している。
これは「進んだ米国から遅れた日本へ施しを受ける」構造ではない。女性同士の同志的連帯として、米国の女性たちが日本の女性のために動いた事例である。
通説の転倒
これらの事実が示すのは、通説の根本的な誤りだ。
正確な記述はこうなる——。
1871年、明治政府は梅子を「米国で良妻賢母(domesticity)を学ばせる」ために送った。しかし彼女は、米国でもまだ闘いの最中にあった女性教育運動の現場に放り込まれ、そこで M. Carey Thomas のような女性たちと出会い、家庭性のイデオロギーではなく、女性の解放と知的自立の思想を内面化して帰ってきた。
明治政府が彼女に期待したのは「文明国の良妻賢母」を持ち帰ることだった。しかし彼女が実際に持ち帰ったのは、英米でもまだ獲得されていなかった女性の高等教育という、はるかにラディカルなものだった。
つまり津田梅子は、明治政府の「文明国輸入プロジェクト」の一員として送り出されながら、米国でそれと闘う女性たちの最前線に立ち、結果として明治政府の意図を裏切る形で日本の女子高等教育を切り拓いた人物だった、ということになる。
2. 彼女たちが闘った相手の正体
津田梅子の構造を理解すると、その後の女性運動家たちの位置づけも、根本から書き換わる。
平塚らいてうが闘った相手
平塚らいてうが1911年に「元始女性は太陽であった」と書いた『青鞜』創刊の辞を発した時、彼女が闘っていた相手は何だったか——。
それは、1898年に施行された明治民法が確立した「家」制度であり、1899年に高等女学校令で国家制度化された「良妻賢母」イデオロギーであり、1900年の治安警察法第5条で女性の政治結社加入を禁じた近代国家装置であり、ヴィクトリア朝的「家庭の天使」の翻案として日本に上陸した「貞操観念」だった。
つまり彼女が闘った相手は、江戸時代から続く封建遺制ではなかった。明治政府がこの数十年のうちに西洋から輸入したばかりの、新品のイデオロギーだったのである。
与謝野晶子が闘った相手
与謝野晶子が1901年に『みだれ髪』を発表した時、彼女のあの——。
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
この詩が打ち破ろうとした「貞操観念」は、江戸期日本のものではない。
江戸期日本は、井原西鶴の『好色一代男』『男色大鏡』の世界が示すように、性に関して驚くほど開放的な社会だった。前稿で見た通り、混浴は当たり前で、男色は文学の主題として大量に流通し、女性の性的主体性も文学に頻繁に描かれた。
晶子が打ち破ろうとした抑圧的性規範は、明治政府がピューリタン的・ヴィクトリア朝的規範として輸入し、混浴禁止令(1879)から教育勅語(1890)を経て国民の身体に刻み込んでいった、新品のキリスト教的性道徳の翻案だった。
つまり与謝野晶子は、「日本の伝統的貞操観念」と闘ったのではない。ヴィクトリア朝が輸入されて十数年しか経っていない、出来立てほやほやの抑圧規範と闘っていたのである。
これは、同時代の英米でケイト・ショパン(『目覚め』1899)やヴァージニア・ウルフが闘っていたのと、まったく同じ相手だ。
伊藤野枝が闘った相手
伊藤野枝が大杉栄と共に1923年に殺された時(甘粕事件)、彼女が体現していた自由恋愛・自由結婚の思想は、「日本古来の男尊女卑」への反逆だったのか——。
否、である。
江戸期の庶民の結婚は、前稿で詳述した通り、極めて流動的だった。離縁・再婚は頻繁で、共同体ぐるみで子育てがされ、女性は商家でも農家でも主要な労働力だった。
野枝が闘った相手は、明治民法が1898年に確立した「家」制度と戸主権であり、それは江戸ではなく西洋(特にドイツ民法)からの輸入品だった。
そして極めて示唆的な事実がある。野枝はエマ・ゴールドマンの著作を翻訳していた。アメリカのアナーキスト・フェミニストであるゴールドマンと、日本のアナーキスト・フェミニストである野枝が、同じ相手と闘っていた——つまりそれは、19世紀後半に西洋資本主義国家が確立した、近代家父長制という新しい支配構造だったのである。
市川房枝が闘った相手
市川房枝が女性参政権運動を闘った時、それは「日本古来の家父長制」との闘いとして語られる。
しかし日本における女性の政治活動禁止は、1890年の集会及政社法、1900年の治安警察法第5条という、ごく新しい近代法規によって制度化されたものだ。これらの法はプロイセン・ドイツの法体系を直接モデルとした、輸入品である。
英米の参政権運動家エメリン・パンクハーストやスーザン・B・アンソニー、市川房枝、平塚らいてう——彼女たちは皆、同時期に成立した近代国民国家の家父長的構造と闘っていた。
日本女性運動家は「遅れた東洋の特殊な抑圧」と闘ったのではない。世界中の女性運動家と同じグローバルな構造と闘ったのである。
3. 「儒教的封建遺制」言説の二重の欺瞞
ここで、本論考が前稿から指摘してきた構造的欺瞞が、最も鮮やかに姿を現す。
「日本の女性抑圧は儒教的・封建的伝統に由来する」という言説は、二重に間違っている。
第一の誤り ― 事実として誤り
明治の女性抑圧構造(家制度、夫婦同氏、良妻賢母、女性の政治活動禁止)は、儒教的伝統ではなく、明治政府が輸入した西洋近代規範の翻案だった。
江戸期日本は、女性に関して西洋ヴィクトリア朝よりはるかに開放的な社会だった。これは前稿で複数の学術文献から確認した事実である。
第二の誤り ― 政治的機能としての欺瞞
「これは日本古来の儒教的伝統だ」と言うことで、明治国家が輸入し制度化した抑圧を、まるで太古から続く文化的本質であるかのように見せかける。
すると、その抑圧と闘う女性たちは「日本の伝統に逆らう西洋かぶれ」として周縁化される。
これは典型的な「創られた伝統」の権力的機能である。実は数十年前に輸入されたばかりの近代装置を、「太古からの本質」として偽装することで、抵抗を「非国民的」「反伝統的」として排除する——。
明治国家がこの手法を完成させた事例の一つが、まさにジェンダー秩序だったのだ。
4. 女性運動家たちの真の歴史的位置
この構造を見抜くと、明治・大正・昭和の日本女性運動家たちの歴史的位置が、根本的に書き換わる。
通説
遅れた日本で、男尊女卑の儒教的伝統と闘った先駆者たち。西洋の進んだ女性解放思想を輸入することで、日本社会の近代化に貢献した。
事実
明治政府が西洋から輸入したばかりの家父長的キリスト教的国民国家装置と闘った、世界の女性解放運動の同時代的同志たち。
彼女たちは、英米の女性運動家と同じ歴史的瞬間に、同じ敵と、並走しながら闘っていた。
津田梅子と M. Carey Thomas が肩を組んで活動したのは、「遅れた東洋と進んだ西洋の協力関係」ではなかった。世界規模で同じ敵と闘っていた女性たちの、国境を越えた連帯だったのだ。
5. 現代への含意 ― 「日本の遅れ」言説の解体
この視点が立つと、現代の日本ジェンダー議論が一変する。
世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数で日本が低位にあることは、しばしば「日本は儒教的伝統が残るアジアの国だから遅れている」と説明される。
しかし本論考の枠組みで読み直すと、これは——。
明治政府が1898年に西洋から輸入した家父長制度を「日本の伝統」として偽装し、その後百年以上にわたって維持・強化してきた結果
なのである。
1947年の戦後民法改正でも「家」制度は廃止されたが、夫婦同氏は維持された。これは英米が20世紀後半に解体していった同時代の輸入品を、日本が「日本らしさ」として保存し続けた、ということだ。
つまり日本のジェンダーギャップは、「アジア的伝統」の問題ではない。19世紀末に輸入した西洋規範の博物館的保存の問題なのである。
6. 「日本らしさ」の再定義
ここに、前稿と本稿を通じて私が示してきた構造的転倒の核心が露出する。
「日本らしさを守れ」という保守言説が守ろうとしているのは、明治政府が輸入した19世紀西洋規範である。
これに対して「西洋的価値観の押し付けだ」と批判される現代のフェミニズム・LGBTQ運動などが目指す方向性は、実は江戸期日本の流動性・開放性により近い。
そして津田梅子から伊藤野枝、平塚らいてう、与謝野晶子、市川房枝に連なる日本の女性運動家たちは、「日本の伝統に逆らう西洋かぶれ」ではなかった。
彼女たちは、明治政府が西洋から輸入した抑圧と、世界の同志たちと並走して闘った人々——として、歴史的に位置づけ直されることになる。
おわりに ― 響き合う構造
前稿で私は、現代日本で「伝統」とされているものの多くが、明治期に輸入された西洋近代規範の翻案であることを示した。
本稿で示したのは、その輸入された規範と闘ってきた日本の女性たちが、孤立した「先駆者」ではなく、世界の女性運動と並走する同志だった、ということである。
ここから見えてくるのは、響き合う一つの構造だ。
江戸以前の日本の古層——流動性、共生、多元性、性の開放性、夫婦別氏、共同体的子育て——と、現代のグローバルな解放運動——ジェンダー多様性、流動的家族形態、自由な性のあり方——が、明治期に輸入された家父長的キリスト教近代規範を挟んで、構造的に響き合っている。
私たちが「進歩的」と感じている方向性は、実は古い日本に近い。私たちが「日本らしい」と感じている方向性は、実は新しく輸入された規範に近い。
この時間と空間を超えた響き合いを見抜いた瞬間、現代の言説地形は根本的に変化するはずだ。
「保守 対 リベラル」「東洋 対 西洋」「伝統 対 近代」——これらの二項対立の足元が、もう一段深いところで脱構築される。そこに立ち現れるのは、もっと豊かで、もっと自由な、可能性の地平である。
津田梅子たちが見ていたのは、おそらくその地平だった。
主要参考文献
津田梅子・近代日本女性教育
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法務省民事局「我が国における氏の制度の変遷」https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html