——身だしなみの非対称性と、鏡を持たない者たちへ
ある調査結果が話題になっている。
男性が「女性の身だしなみでがっかりすること」の1位は「ムダ毛処理ができていない」「香水の匂いが強すぎる」「髪の手入れができていない」の三つが同率。「肌やネイルの手入れができていない」がそれに続く。
なるほど、と思いながら読み進めると、ある違和感が積み上がってくる。
要求する側の自分は、どうなのか。
鏡を持たない要求
「肌の手入れができていない女性はNG」と言う男性が、スキンケアをしているかどうか。「香りが強すぎる女性は無理」と言う男性が、自分の体臭・部屋の匂いを把握しているかどうか。「髪の手入れ」を求める男性の髪が、果たして整っているかどうか。
調査の別の設問では、女性が男性にがっかりすることのトップは「髪の手入れができていない」(23.6%)、続いて「肌の手入れができていない」(18.9%)だった。
双方が同じことを要求し合っている。ただし、片方だけが実践している。
「露出」のダブルスタンダード
さらに根深いのが、「肌の露出」問題だ。
男性のNGリストには「肌の露出が多すぎる」が並んでいる。一方で、夏になれば袖をまくって腕の筋肉を見せる男性は後を絶たない。胸元を開けて歩く男性も、今もいる。
しかし本人の中では、それは「露出」ではない。「アピール」だ。「魅力の提示」だ。
自分の行為には好意的な意味を付与し、相手の同じ行為には批判的なラベルを貼る。これは無意識のうちに、自分を主体、相手を客体として設定していることの表れだ。
すっぴんという労働
ここで、核心の問いを立てたい。
女性の「すっぴん」を「手抜き」「だらしない」と感じる男性は、メイクをした状態を女性のデフォルトだと思っている。
だが、メイクは毎朝時間とコストをかけて施す、れっきとした労働だ。肌の状態を整え、色を補正し、光の当たり方を計算し、乾燥しないよう気を配り、崩れないよう管理し続ける。それを「当然の状態」として受け取り、その労働が省かれた素の状態を「マイナス」と評価するのは、労働の不可視化に他ならない。
だとすれば、返すべき言葉はシンプルだ。
「自分もすっぴんで街を歩くな」
眉も整えず、肌もケアせず、くすみも隠さず素のまま外に出ることを「普通」だと思えるなら、女性のすっぴんも同じく「普通」のはずだ。それが普通に見えないなら、あなたはすでに女性の化粧労働の恩恵を享受しながら、その存在に気づいていない。
昭和の価値観と「自己プレゼン」型のモテ観
この非対称性の根には、より古い価値観がある。
「男は筋肉、力、笑いがとれるか」——これが昭和以来続く男性の自己評価軸だ。身だしなみとは本来「相手の感覚に配慮する行為」のはずが、男性においては「自分の魅力のアピール」にすり替わっている。
相手が何を心地よいと感じるかではなく、自分が何を持っているかを提示する。これが「自己プレゼン型のモテ観」だ。
モテない理由は、魅力の量の問題ではなく、ベクトルの向きの問題だ。自分から外に向けて発射し続けている限り、相手の体験は立ち上がらない。
体験が認識を変える
男性がスキンケアを始め、メイクに挑戦することは、単なるトレンドではない。
毎朝それをやってから外に出ることで初めてわかる——手間の重さ、肌を整える難しさ、「見られる」ことへの意識の変化が。
体験が認識を変える。 そして認識が変わったとき、相手への要求の質も、関係性の設計も、変わらざるを得ない。
鏡を持つとは、そういうことだ。
著者注
筆者は30年以上前からスキンケアを日課としている。ここ5年以上は、メイクも女性と同程度に一通り施している——ベース、眉、目元、リップ、すべて含めて。ネイルケアも毎月欠かさず、ジェルネイル・マニキュアを手足ともに整えている。フラグランスは男性向けではなく、ユニセックスの穏やかな香りを選ぶ。
このエッセーは、外から批評する立場で書いていない。自分がやってきたからこそ、わかることを書いている。