分断は社会にあるのではない、私たちが作り出している
スティーブ・ジョブズがペプシコのジョン・スカリーを口説いた言葉は有名だ。「砂糖水を売り続けるのか、それとも世界を変えるか」。この言葉は今も起業家精神の金言として繰り返し引用される。
ジョブズは正しかった。彼は世界を変えた。最悪の意味でも。
しかし誰もそれを指摘しない。
iPhoneが生み出したのは、手のひらの上の奇跡だけではない。熟考なき即時発信の大衆化、注意経済の確立、感情的コンテンツを優先するアルゴリズム、孤独の深化と表層的つながりの氾濫——これらもまた、iPhoneとそのエコシステムが可能にし、強化した現実だ。
批判がなされない理由は構造的だ。ジョブズはすでに神話化された死者であり、Appleは巨大な経済的利益の象徴であり、iPhoneは私たちの生活に完全に組み込まれている。そして決定的なのは、批判する側もiPhoneで発信しているという自己矛盾だ。
この批判不可能性こそが、問題の深さを示している。
二
かつて、個人が何かを発信するとは、本質的に「限定的な行為」だった。
ビラを刷り、手紙を書き、投書し、同人誌を作る——どれだけ過激な内容であっても、物理的・経済的コストが自然なフィルターとして機能した。そして何より、書くという行為には必然的に時間がかかった。書き、読み返し、直し、また読む。この編集のプロセスは単なる技術的手順ではなく、思考と感情の間に介在する自己との対話だった。
さらに、紙の時代には「想定読者」が存在した。この人に届けたい、この集会の参加者に読んでほしい——その具体性が、表現に責任と文脈を与えていた。
SNSはこれらを一挙に解体した。
感じた瞬間に発信できる。編集のプロセスは消え、自己との対話は省略される。そして理論上、それは全世界に届く。
ここで見落とされがちな本質がある。これは「より多くの人に届く」という量的変化ではない。規模が閾値を超えた瞬間に、発信行為の社会的性質そのものが変わる。 個人の日記と、全世界に向けた声明は、同じ文字が並んでいても別物だ。
しかし発信者の責任意識は、紙時代の個人発信のままだ。「一個人の意見です」という免責と、全世界への影響力が同一人物に同時に存在する。この非対称性は、制度的にも倫理的にも未解決のまま放置されている。
三
その回路の上に、アルゴリズムが乗っかる。
SNSのアルゴリズムは、穏やかで複雑な言葉より、単純で感情的な言葉を優先的に増幅する。これは設計の失敗ではなく、設計の成功だ——エンゲージメント、つまり「人を画面に釘付けにする力」を最大化するよう設計されており、怒り・恐怖・嫌悪といった感情こそがその燃料になる。
かつて紙に書かれた過激な主張は、書く側にも一定の熟考を強いた。今は強いない。想定読者を失った言葉は文脈から切り離され、書き手自身も無意識に「最も反応を得やすい表現」へと最適化され始める。
単純化が強化される。先鋭化が報われる。
四
この構造の中で起きていることを、原発反対・基地建設反対・護憲運動という文脈で見てみよう。
かつての市民運動には、一定のリアリティに基づく等式があった。「反対運動=草の根=弱者=正義」。権力に対して圧倒的に不利な立場で声を上げる人々に、その等式は機能していた。
しかし今は違う。
数十万フォロワーを持つ活動家個人が、地方議員や中小企業経営者よりはるかに大きな影響力を持つ時代だ。特定のハッシュタグが瞬時に国際的注目を集める。マスメディアはSNS投稿を拾って記事にし、その記事がまた拡散される。閉じたエコーチェンバーが、メディアを巻き込んで制度化される。
理論上、個人は国家にさえ対峙できる環境が生まれている。
極端な例として、トランプという個人のSNSアカウントがある。米国大統領という特異的な立場という条件はある。しかしその投稿は、内容の真偽や品格を問わず、米国という国家の公式見解を超えて世界に拡散する。あれを「大統領の公式アカウント」と呼ぶには内容があまりにも疑わしいが、それが世界の政治的現実を動かしている。個人の発信が制度を凌駕する——これはもはや比喩ではなく、現実に起きていることだ。
イーロン・マスクはさらに純粋な例だ。彼は国家の長ではない。世界最大の個人資産を持つ人物であり、Xというプラットフォームそのものを所有し、自らの発言のアルゴリズム的優先度を事実上コントロールしながら、各国の政治・経済・外交に影響を与えている。選挙で選ばれたわけでも、条約で権限を与えられたわけでもない。資本とプラットフォームを握った一個人が、民主主義国家の政策決定に介入する。「個人対国家」という構図は、もはや理論上の話ではない。
この現実において、「自分たちは弱者である」という自己認識を更新しないまま活動を続けること自体が、一種の欺瞞になり得る。
そしてさらに深刻な問題がある。この等式は世代を超えて再生産されている。SNSネイティブの若い母親世代も、環境運動・護憲運動に積極的に参加する。しかし「市民活動=弱者VS権力、自分たちは絶対正義」という認識枠組みと、異論者の感情的排除という図式は、年配世代と変わらない。
これは世代の問題ではない。運動文化そのものの構造的問題だ。
運動に参入する際、既存の語彙とフレームを受け入れることが暗黙の条件になっている。異論を持ち込む者は「理解していない」「権力の側」として排除される。「正義の側にいる」という確信は強力な心理的報酬であり、それは批判的自己検証よりも帰属感を優先させる。
道徳的優位の確信が、現実認識の劣化を招く。
五
ここで冒頭の問いに戻る。
私たちはよく「社会の分断」を語る。しかしその語り方自体を問い直す必要がある。
アメリカの分断は、アメリカ全土が分断しているのではない。実証的に見れば、多くのアメリカ人は穏健な中間に位置し、政治的に固定したアイデンティティを持たない。しかしSNSのアルゴリズムは先鋭化した発言を優先的に増幅し、マスメディアはその投稿を拾って記事にする。「これがアメリカだ」という像が形成される。
その像を見た穏健な多数が、「社会はこんなに分断されているのか」と感じ、防衛的に自分の立場を固め始める。
分断の像が、実際の分断を後から作り出す。自己成就的予言としての分断だ。
同じことが日本でも、世界でも起きている。そしてそれが社会を不安定化させている。
しかし最も深刻なのは、分断を生産している側に自覚が生まれないことだ。「分断と戦っている」という自己像が、分断生産の免罪符になっている。分断を告発しているつもりが、分断を深めている。
分断は社会にあるのではない。私たちが作り出している。そしてその自覚がない。
六
ジョブズは言った。世界を変えるものを作れ、と。
彼が作ったものは確かに世界を変えた。熟考を省略し、編集を消し去り、感情を瞬時に全世界へ流出させる回路を作った。先鋭化した少数の声を社会の声として代表させるアルゴリズムの土台を作った。分断を生産し、自覚なく強化するインフラを作った。
世界は変わった。ジョブズは正しかった——最悪の意味で。
問われるべきは、テクノロジーの善悪ではない。私たち自身の発信行為の性質だ。
全世界に届く言葉を書くとき、私たちはどれだけの自己との対話を経ているか。異論者を排除するとき、私たちは本当に「弱者の側」にいるのか。分断を語るとき、私たちはその分断を生産していないか。
問いは、外ではなく内に向けられなければならない。